結婚不是人生必經之路:日本單身的人將越來越多

滬江日語2019-03-23 21:27:13

1人でも「寂しくない」未婚者が増える背景

就算1個人也不覺得寂寞的單身人士越來越多,其背景是?


「常に部外者だった。どこにも屬したことがない」。

“總是融入不了,哪兒都插不進去。”


宇多田ヒカルさんの言葉です。昨年6月に放送されたNHK『SONGSスペシャル』において、彼女の抱える「所屬感のない孤獨」が自身の口から語られていました。

這是宇多田光在去年6月於NHK播出的《SONGS》特番中,親口説出的話語。並且表示自己感受到“沒有歸屬感的孤獨”。


藤圭子さんを母親に持つという特殊な家庭環境、両親の離婚、米國移住や度重なる転校など、少女だった彼女にとって、家庭も學校も「所屬の安心を得られる居場所」ではなかった。それは、デビュー後多くのスタッフに囲まれた中においても同様だったようで、結局彼女は「所屬感のない孤獨」と常に向き合い続けてきたのかもしれません。

她的家庭情況非常特殊,母親是(歌手)藤圭子,經歷了父母離異,多次轉校、移居美國等,對當時還處於青春期的宇多田來説,無論是家庭還是學校都不是可以安心的歸屬地。就算出道後,被眾多工作人員所圍繞,但孤獨感仍然沒有消失,説不定她與這份“沒有歸屬感的孤獨”常年鬥爭着。



所屬を失うことで孤獨を感じる

失去歸屬而感到孤獨


こうした「所屬感のない孤獨」を感じている若者も多いのではないでしょうか? いや、若者だけではありません。定年を迎えた高齢者も、フリーランスで働く人も、離婚や死別などでソロに戻った人も、今後多くの人たちが「所屬を失うことでの孤獨」を感じるようになるでしょう。それは、個々人の問題ではなく、もはやコミュニティというものが所屬によって成立しえなくなるからです。

像這樣有“沒有歸屬感的孤獨”的年輕人是不是很多?可不僅僅是年輕人,到了退休年紀的老年人、無固定單位的打工者、因離婚或喪偶等原因恢復單身的人,今後會有越來越多的人都會感受到“沒有歸屬感的孤獨”。這已經不是個人的問題,而是由於共同社會團體的分崩離析而無法成型。



かつて、地域・家族・職場といったコミュニティは、「人々の居場所」でした。そこに所屬している人々は、「自分はこのコミュニティの一員だ」という安心感が得られます。

過去我們把地區、家庭、工作單位這一類共同體成為“人們的所在之地”。有歸屬地的人,會有“自己是此共同體中的一員”的安心感。


だからこそかつてのコミュニティは「ウチとソト」の境界線を明確化して、ウチの安心を強固なものにしていたわけです。

因此,過去的共同體在“裏和外”的界限上十分明確,在“裏面”的安心感特別強。


しかし、こうした安心できるコミュニティは、社會學者のジグムント・バウマン氏やウルリッヒ・ベック氏らの予言どおり融解し、不安定で流動的な「個人化する社會」に移行していきます。

但是,這種讓人安心的共同體逐漸溶解,就像社會學家Zygmunt Bauman和Ulrich Beck預言的那樣,它正以不安定的形式變成流動的“個人化社會”。


事実、地域のコミュニティは都市部ではほぼ消滅していますし、職場のコミュニティもかつてのような安心は提供してくれません。昭和的な大家族形態も少なくなり、そもそも非婚化で家族コミュニティを持たない人も増えています。所屬の安心が失われていくわけです。だからといって、未來は「暗黒の孤獨社會」になるのでしょうか?

事實上,地域共同體幾乎已經在都市中消失了,而職場從來就不能給人安心感。像昭和時期那樣的大家族形態也越來越少,不結婚且沒有家族共同體的人越來越多,那麼安心感自然就消失殆盡了。儘管如此,我們的未來會成為“黑暗的孤獨社會”嗎?


イギリスが孤獨擔當大臣のポストを新設したというニュースが出て以來、「孤獨は死に至る病」「孤獨リスクはタバコや肥満より悪影響」などという記事も目にしますが、そもそも孤獨というのは誰にとっても共通の悪なのでしょうか? もちろん、1人でいることをストレスと感じる人もいますが、1人でいることを快適と感じる人もいます。

自從英國設立孤獨大臣,看到宣傳海報的新聞以來,也常會看到“孤獨是一種致死症”“孤獨比香煙、肥胖的影響更惡劣”等報道,但孤獨真的對誰來説都是不好的嗎?有人會覺得獨自一人壓力很大,但也有人會覺得一個人樂得輕鬆。


2015年出生動向調査でも、35歳未満の未婚男女のうち「1人の生活を続けても寂しくないと思う」人は、男性48%、女性36%もいます。しかもこの數字は1997年と比べてかなり上昇しています。

據2015年度的出生動向調查結果來看,未滿35歲的未婚男女中,對於“就算一個人生活也不覺得寂寞”的男女比例分別是48%和36%。而且這個數字與1997年時相比,有了大幅度的上升。



1980年代まで日本は皆婚社會でした。そのため全員が結婚を希望していると考えがちですが、『「獨身の9割が結婚したい」説の根本的な誤解』にも書いたように、実質結婚に前向きなのは30年以上前から男性4割、女性5割にとどまります。

1990年代之前日本還是一個全民結婚的社會,能聯想到的是”所有人都想結婚“。但是,如同《“90%單身想要結婚”的説法根本就是個誤會》寫的那樣,實際上積極面對婚姻的人,從30多年前男女比例就停止在40%和50%了。


皆婚だった社會では可視化されなかった「1人を寂しいとは感じない層」も顕在化しています。また、結婚したところで、離別や死別でソロに戻る可能性は全員にあります。現に、婚歴のある獨身者だけでも、すでに2015年國勢調査時點で、1500萬人を突破しています。

曾是全民結婚的社會已不被可視化,而“一個人也不覺得寂寞的羣體”卻越來越顯著。就算已婚,離婚,喪偶等迴歸單身的情況也都有可能。有婚史的單身人羣,在2015年的國民情況調查時已經突破了1500萬人。


「人とつながる」=「友達作り」ではない

“人與人的交往”=不是“交朋友”


孤獨を「1人でいるかいないか」という物理的狀態だけで考えてしまうと、「集団の中に所屬させればいい」という短絡的な解決方法しか見いだせなくなります。むしろ、集団の中にいて、どこかに所屬しているにもかかわらず、疎外感を感じてしまうことのほうが苦しいはずです。裏返せば、どんな狀態であれ、心が1人ぼっちにならないためにどうするか?を考えていくことが大事です。

我們把孤獨僅以“是不是一個人”這一物理性狀態來考量,最快速的解釋方法就是“讓其從屬某個集體”。身處集體之中卻不知自己應該待在哪裏,倒不如説這種局外人的狀態更令人苦惱。反過來思考,不管是什麼樣的狀態,應當考慮的是如何讓自己的內心不孤單才是最重要的。


結論から言うと、それは各個人が「ソロで生きる力」を身につけ、精神的に自立することだと考えます。「ソロで生きる力」とは、逆説的ですが「人とつながる力」でもあります。これは同時に「自分とつながる力」でもあります。

從結論來説,這是每個人傍身的“獨自生存的力量”,是從精神層面建立起來的。而“獨自生存的能力”的反面,便是“人與人之間的交際能力”,同時也是“與自己銜接的能力”。


「人とつながる」というと、どうしても「友達を作る」ことだと考えがちですが、決してそうではありませんし、どこかのコミュニティに所屬したら安心だということでもありません。

所謂“與人的聯繫”,容易被認為是“交朋友”,其實並非如此,也不是説屬於哪個團體就能安心。


無理に所屬しなくてもいいのです。所屬することでの安心というのは、それと引き換えに、空気を読んだり、不本意ながら同調したりするという無理も伴います。所屬とは、みんなと同じなら安心だ、という共同幻想を信じることです。

不要勉強自己一定要存在於集團之中。有了歸屬地,獲得安心感,但與之換來的是察言觀色,是做出違背於自己內心的舉動。歸屬感,是覺得‘大家的想法和我是一致的,所以能夠安心’,去相信這份共同的幻想。


今後大切になるのは、「所屬しなくても得られる安心がある。誰かと一瞬接続することだけでも安心が得られるのだ」と気づくことだと思います。私は、それを「接続するコミュニティ」と表現しています。

今後的社會中,重要的是“就算沒有歸屬也能獲得安心,僅僅和誰有過一瞬間的接觸就能得到安心感”,我把這種關係稱之為“接續性團體”。


かつての家族、地域、職場は「所屬するコミュニティ」でした。しかしこれからは、枠の中に自分を置いて羣れの一員になるのではなく、個人と個人とがさまざまな形でゆるやかに接続する形になっていくと思います。

過去的家庭、地區、職場都是“歸屬性團體”。現在乃至今後,是不再把自己當作是任何組織中的一員,是個體之間以各種各樣的模式形成寬鬆的接續性團體。



人との関係性とは、同じ場所や同じ枠におさまっていることが重要なのではなく、いかに必要なときに接続することができるかが問われてきます。その接続はリアルでもネットでも、直接でも間接でもいい。人でなくても本と接続することでもいい。コミュニティは枠でも場所でもなく、神経伝達系のシナプスのような役割でいいのです。

人類的關聯性,重要的不再是存在於同一個地方或同一個組織中,而是如何在必要的情況下能夠聯繫。這種聯繫可以是在現實生活裏,也可以通過網絡,直接還是間接聯繫都沒問題。即便不是和個人,和書本也可以。這種團體既不是組織也不是場所,只要像神經傳達系統的連接點那樣產生作用便好。


學校に居場所がない、職場に居場所がない、社會に居場所がない。そうした「場所に所屬することでしか安心できない呪縛」から解き放たれましょう。友達がいない、戀人がいない、愛すべき子がない。自分の外側に何もないからといって、自分そのものまでなくしてしまわなくていいのです。

如果在學校、在職場、甚至在社會上覺得待不下去,就讓我們從“沒有歸屬就無法安心的咒語”中解放出來吧。就算自己的‘外部’什麼都沒有,沒有朋友,沒有戀人,沒有喜歡的人,重要的是不丟失自己的內心


「つながっている」のに孤獨

即使“聯繫着”卻還是倍感孤獨


安心とは、自分の外側にあるアウトサイドコミュニティにしかないわけではありません。大事なのは、「安心な場所を探す」ということではなく、「いつでもつながれる誰かがいるって信じられる」ってことです。

安心感,指的並不是自己周圍的外部環境。重要的是“相信無論何時都有可以聯結的人”,而不是“尋找令人安心的場所”。


一方で、「リアルでもネットでもたくさんの人とつながっているのに孤獨だ」という、いわゆる「つながり孤獨」という狀態に苦しむ若者も増えています。「人とつながる」それ自體を目的化して、「友達になればいい」「ネットでつながればOK」と考えてしまうと、「つながる」ことの意味を見失ってしまいます。

另一方面,“無論是現實生活還是網絡,和許多人有聯繫卻依舊孤獨”,患上所謂“羈絆孤獨症”的年輕人也越來越多。“人與人的羈絆”本身成了一種目的,想着“只要成為朋友就好了”“在網絡能交流就好了”,反而失去了“羈絆”的意義。


「つながる」ことは単なる手段です。誰かと會ったり、話したり、行動したりすることは、それが目的ではなく、それを通じて「自分の中に生まれた新しい自分」と「つながる」ためです。言い換えれば、あなたがあなた自身を理解し、認めてあげるために「人とのつながり」があるのです。

“羈絆”單純只是一種手段。目的不是和誰見面,聊天,一起行動,而只是通過這種手段為了同“內心新誕生的我”相聯繫而已。換言之,你是為了理解自己,認同自己才會“與他人聯繫”的。



自分で自分を認めて、信じられるようになれば、すでに自分の中に拠り所となるインサイドコミュニティができている証拠です。インサイドコミュニティとは、自分自身の中に「安心できるコミュニティ」を作り出すということです。所屬するコミュニティは、あくまで自分の外側の枠に自分を置くことでした。

認同自己,相信自己,就已經表明自己的內心已有了精神支柱的證明。所謂內部環境,就是自己在自己內心建立起“安全地帶”。你的歸屬地,不過是自己放到了自身的外部環境而已。


しかし、接続するコミュニティでは、逆に自分の內面に安心できるコミュニティを築くことになります。たくさんの人とつながり、自分の中にたくさんの自分が生み出されるということは、いわば「八百萬(やおよろず)のあなた」によってあなたの中が満たされるということ。それが、自分のインサイドコミュニティなのです。

然而,接續性共同體反而構建安定自身內心的環境。和許多人有聯繫,在自己的內在創造更多的自己,也就是讓“無數的你”填滿你的內心。這就是你自己的內部環境。


孤獨を悪者にしても、孤獨は解消されない

就算把孤獨視作惡人,也無法消除它


宇多田ヒカルさんは歌詞作りの際に、私が「私ではない誰か」に伝えたいことを書くという話をしていました。「私ではない誰か」とは特定の誰かではない。かといって架空でもない。それは「私ではない私」でもあり、「誰かによって生まれた(私の中にいる)私」なのではないでしょうか。

宇多田光在寫歌詞時曾表示,想要傳達的“不是我自己,而是其他人”。但TA既不是特定的某個人,也不是虛構的,可以理解成“非我之我”或是“由不同的人構成(內心)的我”。



だからこそ、彼女が作り出す歌には自分への「願い・祈り・希望」が込められているのです。そして、それが多くの人の心の中にいる「宇多田ヒカルによって生まれたあなた」「同じように漠然と孤獨を抱えているあなた」にも共鳴し、心を打つのでしょう。

正因為如此,她創作的歌曲總是包含着對自己的“懇求、祈禱、希望”。在更多人心中,因“由宇多田光誕生的你”“有着同樣漠然和孤獨的你”而產生共鳴,打動靈魂。


所屬することで「集団の中にいる私」で安心していた時代から、「誰かと接続することで生まれる私の中の私」と付き合うことへ。それは個々人がバラバラに生きる世界ではなく、むしろたくさんの誰かと「新しく生まれた私同士がつながる」世界なのだと思います。

從歸屬於“某個集體”才能安心的時代,發展到“與某人連接誕生內心的我”,這已然不是每個人各自生存的世界,而是和許多人建立起了“新生同盟”的世界。


孤獨を悪者にしても孤獨は解消されません。「誰かに傍にいてほしい」「誰かに理解してほしい」というように、自分の外側のアウトサイドコミュニティだけに依存してしまうから、孤獨というものを極度に恐れたり、嫌悪したりするのです。それは孤獨のせいではなく、「あなたの中のあなたが足りない」からです。

把孤獨視作惡人並不能消除它。“想要誰待在身邊”、“想要得到別人的理解”,因為依賴自己周圍的外部環境,所以會對孤獨極度恐懼和厭惡。這並不是孤獨的錯,而是“你內心中的自己不夠分量”。



宇多田ヒカルさんの「道」という曲には次のような意味の歌詞があります。「一人で歩いていたとしても、私は孤獨ではない」。そう思えることが本當の「つながり」であり、自立なのだと思います。

宇多田光《道》的歌詞作者我是如此理解的:“就算是一個人的旅程,我也並不孤獨”。這樣的想法才是真正的“羈絆”,能自立的人。


-感謝閲讀-

長按二維碼關注

  往期回顧  

日本國民組合嵐宣佈活動休止,大野智或將引退娛樂圈。日本人最喜歡在無印良品買什麼?中日關係大回暖!在中國見到日本愛豆不是夢?街訪日本人説英語全場魔性爆笑!這是要開闢“新語種” / 日本皮膚專家提倡在家不出門也要堅持化粧?日本便利店不再允許售賣“小黃本”,日本網友表示…… / 日本票選“醜得剛好”女星TOP10…你們是不是對醜有誤解?

滬江日語

輕戳好看 

讓更多人看你所看 

https://hk.wxwenku.com/d/110028163